父子で築く北河内の酒造り市場変化に寄り添い未来を拓く
無濾過生原酒を軸とする
マーケットインの酒造り
「大阪」というと繁華街のイメージが強いが、北河内は緑豊かな地域だ。大阪府の東端、南北約30㎞にわたり、大阪・奈良・京都を隔てる自然の境界線となる生駒山系から、大阪平野に傾れ込むなだらかな丘陵地帯は、平安時代には皇室の遊猟地として「交野が原」と呼ばれ、桜の名所であった。そんな交野市で酒を醸すのが、「片野桜」を主力銘柄に持つ山野酒造だ。甑倒しも近い早春の朝、蒸しの蒸気が立つ中で、代表取締役社長の5代目当主、山野久幸氏と長男で専務の真寛氏が屈託のない笑顔で迎えてくれた。
山野酒造は生酛系酒母、特に山廃に定評がある蔵だが、酒造りのラインナップは「甘い酒、辛い酒、フレッシュな酒や古酒などオールマイティーに揃う」ことを目指しているという。その上で、「旨みのあるしっかりした味わいだが雑味なく綺麗」な味わいを片野桜のコアと位置付ける。山廃は多いが、ただ昔ながらの伝統だからという理由で山廃を造るのではない。乳酸やアミノ酸がしっかり出る味わいのある酒のために山廃酛を選択、バリエーションを持たせるために山廃の山田錦は香りのあるきょうかい9号酵母、雄町は6号酵母というように、多種多様なラインナップに合わせて、使用する酵母や麹、さらには酒母までも使い分ける。市場の趨勢を見極めるスタンスは徹底している。例えばアルコール添加を否定するわけではないが、「純米を望む買い手が増えたので、現状、純米系が全体の75%」なのだと久幸氏はいう。
全製造数量の約9割が特定名称酒、その中でも、無濾過生原酒の割合が全体の30%を占める。「酒は主発酵から上槽した瞬間が本来完成系。そこから手をなるべく加えず、出来立ての状態を消費者に飲んでもらいたい」という思いからだ。
酒造用水は、地表からなんと8mという浅井戸から湧き出る弱硬水で、酵母の湧き付きも程よい。近年、不思議なことが起きた。「2018年6月の大阪府北部地震からこのかた、敷地で、硬水と軟水が両方出るようになったんです」と、久幸氏は驚きを隠さない。どちらも良い水には違いないのだが、1801号などの若干湧き付きが弱い酵母に硬水を使うことで、酒質が安定するようになった。そうしたハプニングまで、ラインナップの多様さに結びつけてしまう柔軟さには脱帽する。
新しい試みにも積極的だ。オンキヨー株式会社と提携し、モーツァルトの曲を酒のもろみに聴かせて酒のもろみに特殊な装置で振動を与え、熟成させた「音楽振動熟成加振酒」にも取り組む。単に音楽を聴かせるだけでなく、音楽の振動を利用して酒の味わいに変化をもたらす技術だが、「確かに味わいに差が出る」と久幸氏は評価している。
地元に根ざした酒造りも力を入れる。例えば、地元交野市産のヒノヒカリから造られた「くらわんか 純米酒 うすにごり」は、江戸時代、淀川を旅客や物資を乗せて行き来する三十石舟に向けて、酒や食べ物を販売していた「くらわんか舟」にちなんだ酒だ。廃業した津田酒造の商標を復活し、一般社団法人淀川ブランド推進協議会とともに復刻した酒で、2018年にクラウドファンディングを経て本格リリースされたものだが、今ではすっかり地元の名物の一つとなっている。
試行錯誤の末に訪れた幸運な出会い
山野家は江戸時代には貝塚市で酒造りを行っていたが、明治の初年ごろに交野に移り住んだため、交野では長い間新参者扱いだった。
久幸氏は1955年に生まれた。「酒造り、やめたかったらいつでもやめてええんやで」が先代の口癖で、「酒蔵を継げ」という圧力は全くなかったが、久幸氏には酒造りに対する愛着があった。同志社大学商学部を卒業後、滝野川の旧醸造試験場で酒造りの基礎と技術を学び、滋賀県の酒問屋で酒の流通や販売に関する経験を積んだのち、25歳で山野酒造に戻った。
高度成長期の北河内は工業化が進み、大規模な設備投資が盛んで、ブルーカラーの労働者も多かった。「京阪本線古川橋駅構内の立ち食いそば店だけで普通酒の一升瓶が月50本売れる。流行っている立ち飲みでは月700本も売れる時代だった」と久幸氏は振り返る。しかし、オイルショック以降、北河内地域も日本酒需要の低迷の影響を強く受けた。需要が減少する中で、久幸氏も、酒質を向上させ、付加価値を高めた商品を製造販売する方向に舵を切る決断をした。
しかし、これには大きな困難があった。最大の障壁になったのは杜氏や蔵人との関係性だった。当時の杜氏や蔵人たちは、自らの過去の成功に固執し、スタイルを変えようとしなかったし、新しい技術への関心も不足していた。何度も杜氏が交代したが、最終的に南部杜氏の流れを汲む浅沼政司氏が杜氏になったことで、長い酒質向上への探究に光が差し始めた。蔵元の要望にも耳を傾け、分からないことは人に頭を下げて聞くことを厭わない真摯な姿勢に、「これはええ酒が出来るな、と確信しました」と久幸氏は語る。
1995年、阪神淡路大震災の年に京阪百貨店の枚方店が新規オープンし、そのオープニングイベントで行った試飲販売が大成功した。「問屋が驚くほど売れた」と久幸氏は回想する。これを機に、高品質な酒造りを都市の消費者をターゲットに行うスタンスが確立され、現在「片野桜」の主力商品となっている無濾過生原酒や山廃純米もこの流れで開発された。酒米を替えたり、麹や酒母を変えたりしながら、さまざまな酒質のものにトライしながら新商品をリリースし、百貨店を中心とする販売をするスタイルは好調だった。しかし、昨今、ラインナップを広げすぎたことで、山野酒造の方向性が曖昧になってきた実感があった。こうした状況の中で、久幸氏は「せっかくここまで一生懸命やってきた酒造りを次世代へ継承したい」と強く思うようになっていった。それが、2017年頃のことだ。三人の息子のうち、酒造りを継ぐ意志を示したのが長男の真寛氏だった。
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